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重たい女と浮いた女

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重たい女と浮いた女 ©2021-2022 UTF.

あらすじ

『突発性重力障害』

 

そう診断された私は、

担当医の紹介で小さな女性と出会った。

 

私は物を引き寄せる不思議な病気で、

希少疾病であり難病だと彼女は説明した。

 

原因不明の病は突発性で、

自覚もないので逃げ出すように退院したけど、

自走機械が私の足元にまとわり付いた。

 

短編・再生の物語。
――――――――――――――――――――

他サイトでも重複掲載。

https://shimonomori.art.blog/2021/07/02/heavy/

 

文字数:約20,000字(目安30分)

 

※読了目安は気にせず、まったりお読みください。

 

※本作は横書き基準です。
 1行23文字程度で改行しています。

 

姉妹作『浮いた女と重たい女』も同日掲載。

https://shimonomori.art.blog/2021/07/02/standout/

 

初出:2021/07/02

 

 

重たい女と浮いた女

 

1.発症
――――――――――――――――――――

 

目の前が真っ暗になった。
あまりのことに私は席も立てず、
うつむいて胸元を見つめていたと思う。

 

胸の谷間にリングをつけたペンダントが輝く。

 

長い間そうしていたからか、
ウェイトレスが私の隣でグラスに水を注いだ。

 

突然、私は呼吸もできずにおぼれ、
目が覚めたときには病院のベッドだった。

 

突発性とっぱつせい重力障害じゅうりょくしょうがい

 

診断結果に目を疑う。
私の知らない病名で、壮年の担当医も
この病気を診断するのは初めてだと言った。

 

「マコト・カケメさん。ね。
 この病気については私も門外漢もんがいかんでね。
 運よく専門の先生に連絡がつきましたから、
 午後から面談で時間あけといてください。」

 

運がよければ入院なんてしない。
私は胸の内で否定をつぶやいて首肯しゅこうした。

 

私はそんな医者の話をだいたい聞き流していた。
思考停止していたんだと思う。

 

それに足元からカテーテルが伸びたこんな姿、
できればこれ以上誰にも会いたくはなかった。

 

病院側から用意された個室には、
常に看護用機械人形がつき
待遇はよかったのかもしれないけど、
私は囚人にでもなった気分だった。

 

それから午後になって病室に入ってきたのは、
珍妙ちんみょうな出で立ちの人物だった。

 

病室でただ呆然としていただけの私は、
その姿に思わず目を見開いた。

 

立方体に8つの脚とタイヤが伸びた、
1メートルほどの高さの自走機械。

 

本体のあちこちに『救急』のシールが
デカデカと貼られている。

 

それからとても小柄な少女が入室した。
身のたけに合わない厚底靴をいている。

 

「こんにちは。マコトちゃん?
 はじめまして。ミカ・ルイケです。」

 

黒縁のメガネで、派手なオレンジ色の髪と
袖で手が隠れるほど、大きく不似合いな白衣。

 

「ドクターミカって呼んでもいいよ。」

 

ベッドの上で握手を交わした。
あまりにも小さな手で、顔は童顔どうがん
身長もあいまって中学生にも見える。

 

この少女をドクターと呼ぶのは躊躇ちゅうちょする。

 

「あたし先週まで宇宙いたんだよ。
 『スターリング』って知ってる?」

 

その名前は私だって知っている。

 

「宇宙居住区の。仕事でやりました。
 ひょっとして、住んでるんですか?」

 

「まさかぁ~。仕事だよ。
 でも住んでみよっかなーって思った。」

 

「すごい高いんじゃないんですか?」

 

「普通に住もうとするとね。
 マコトちゃんのお仕事は?
 おぉ、この代理店。あたし聞いたことある。」

 

大学を卒業して大手の広告代理店に就職し、
あらゆる企業の宣伝等を手伝う仕事をしている。

 

宇宙で初めてのコロニー、『スターリング』の
国内向けマーケティングも、私たちの手掛けた
仕事のひとつだった。

 

「私の病気ってなんですか?」

 

こんなところでこんな若い子相手に
悠長ゆうちょうにおしゃべりする気はない。

 

意味のわからない病気を治して、
さっさと退院して仕事に戻りたい。

 

「突発性重力障害だってねぇ。」

 

『だってね。』?
医者にしてはあまりにも他人事のように言うので、
私は眉をピクリと動かした。

 

その表情の変化をこの相手、
ミカはすぐに察して続けた。

 

「検査じゃなんにも出ないんだよね。
 レストランにいた人が救命の資格持ってて、
 症状から病気がすぐに分かったって話。
 午前中にその子から話聞いてきたの。
 たしかに突発性重力障害だった。」

 

「だから、なんですか、それ。」

 

突発性とっぱつせいってのは名前の通り
 前触れなしに突然発症するタイプの病気ね。
 で希少疾患きしょうしっかん、つまりは珍しい病気。
 1000万人にひとりだったけど、
 ここ20年くらいで100万人にひとりってくらい
 増えてきたねぇ。そんでもって難病。」

 

「難病…。」

 

「完治の難しい病気のことね。」

 

「分かってます!」

 

「親族は? 結婚してる? ひとり暮らし?」

 

「…ひとり暮らしです。
 両親は離婚してます。」

 

私が中学校に上る前に両親は離婚した。
母と祖父母の元で大学卒業まで過ごし、
離婚した父からは養育費を貰っていた。

 

そんなことをたずねられれば、
余計に病気の詳細が気になる。

 

難病と言われるとガンや白血病はっけつびょうを想像する。

 

「私、そんなに重たい病気なの?」

 

「重たい病気…まぁそうね。
 そんな焦らなくても。あ、お茶飲む?
 地元はここらへん?」

 

「違います。いりません。
 地元はイナです。」

 

看護用機械人形が湯を沸かし、
コップを用意している。

 

私はカテーテルを差し込んでいるので、
できれば水分補給はしたくはない。

 

「イナ? へぇ。
 近くに湖が有名なイナ?」

 

「え、そうです。」

 

「いいねー。あたしも子どもたち連れて
 またキャンプ行きたいなぁ。」

 

驚きは2度あった。
言葉だけでは分かりにくい地名を
ミカはすぐに言い当てた。

 

近くの湖は、天狗が出て人をさらうという
ウワサのあったキャンプ場だ。

 

それに、この童顔どうがんに奇抜な髪色をして、
いくつか年下で子持ちで医者をやっている。

 

醜い劣等感が私を支配する。

 

「飲まなくてもいいわよ。
 オートマトン白湯さゆでいいよ。
 ぬるめでお願いね。
 えーっと40度くらいで。」

 

オートマトンと呼ばれた看護用の機械人形は、
白湯さゆを言われた通りに放置する。

 

彼女と一緒に病室に入ってきた自走機械は、
ミカの足元で機械の脚を畳んで待機している。

 

「まあ本題に入る前に、…へぇ、28歳かぁ。
 マコトちゃんパートナーは?
 あ、同性でも異性でも構わないけど。」

 

私は首を横に振る。
肯定できないから。

 

胸元に沈むペンダントを見た。

 

発病した日、あの時に私は6年間
付き合っていた男性から別れ話を持ちかけられた。

 

「広告代理店での仕事はあちこち移動する?」

 

「え、はい。」

 

「そう…。それは大変ね。
 会社とは連絡取った?」

 

「治るまでしばらく休めって。」

 

「じゃあ休業手当かな。
 傷病手当の申請もできるか。
 加入してる保険会社に連絡してみてね。
 それから障害者給付。」

 

「そんなにこの病気って深刻なんですか?」

 

「難病って言ったよね。
 あれ? 言ってなかったかもだけど。」

 

オートマトンが用意した白湯さゆをミカに手渡した。
受け取ったミカはコップに指を突っ込む。

 

「おぉいい感じの温度。で、
 突発性重力障害は症状が必ず慢性まんせい化するの。」

 

ミカはコップを私に向けた。

 

「ちょっとこれ持ってみて。」

 

「飲みませんよ。」

 

目の前で指を突っ込まれた白湯さゆなんて、
絶対に飲みたくない。

 

ベッドからお尻を少しズラしてコップを手にする。
ミカが目を見開いてこちらを観察して、息をつく。

 

「重力障害。マコトちゃんのは
 〈ヘビィ〉って呼ばれるのだけど。
 発病したとき、ウェイトレスの持ってきた水が
 マコトちゃんの顔に吸い寄せられて張り付いて、
 呼吸ができなくなったの。」

 

「そんなことってあるんですか?」

 

「それがこの病気。重力障害ね。」

 

ミカはコップを指差した。

 

「なにも起きないじゃないですか。」

 

「マコトちゃんのは突発性だもの。
 いまはなにも起きなかった、ってだけ。
 再発は今夜か、はたまた明日か、来月かも、
 ずっと来なくても確認された中だと
 最長でも1年経って再発した事例もある。
 さっき言った通りこの病気は確実に慢性化する。
 今現在も原因不明で治療も不可能。
 そうなるともう普通の生活は送れなくなるの。
 想像してみて。」

 

想像できない。
私は首を横に振る。

 

「距離は片腕1本分くらい、
 体重の1割くらいがマコトちゃんに
 引き寄せられるの。引力いんりょくってやつね。
 マコトちゃんの体重がぁー…うん…
 だいたい60kgキロと仮定して、仮定ね。
 体重の1割は、水だと質量6リットル。
 6リットルはペットボトルで想像してね。
 それが身体全体に張り付いちゃうの。
 お風呂やシャワーを浴びようものなら、
 単純におぼれるわけよ。
 できるのはちょっと濡らしたタオルで
 身体を拭くぐらい。頭かゆくなるよね。」

 

丁寧に話してくれてはいるけど、
私は病気を自覚してないので理解しようがない。

 

「さらにお手洗いも大変。
 便器の和洋を問わず、おトイレの水が
 お尻から身体をって全身に。
 ずっとカテーテルってわけにもいかないし。」

 

想像するとゾッとする話だった。

 

「だから海外ではストーマにする人が多いね。」

 

ストーマ? ってなんですか?」

 

「ひとりじゃおトイレができないから、
 お腹のここらへんにね、
 人工の排泄はいせつ口を増設するの。」

 

ミカは腹の左右前面をさすって場所を示した。

 

尿管にょうかん回腸かいちょう大腸だいちょうなんかを切って
 その端をお腹から出すの。写真見る?」

 

想像に怖くて、私はすぐさま首を横に振った。

 

「でも排泄はいせつ口を増設すると、
 お腹じゃ括約筋かつやくきんを使わないから
 排泄はいせつがコントロールできなくなる。
 パウチって呼ばれる袋を身体に取り付けて、
 生活しなくちゃいけない。」

 

「え? 待ってよ! 私は普通でしょ?」

 

手にしたコップの白湯さゆが私に張り付くなんて、
そんな不可解な現象は起きていない。

 

「いまは、ね。」

 

突然、あなたはこれから障害者になります。

 

なんて言われても信じられない。
しかもこんなオレンジ頭の医者に。

 

「病気じゃないなら、いつ退院できるの?」

 

「手続きすれば今日には退院できるよ。
 ただ病院側としても
 再発の可能性の高い患者を
 野放しにはできないから、
 あたしが呼び出されたの。
 そんでもし退院するなら、
 この子を常に同行させる必要がある。
 それに同意したらいいってさ。」

 

「なんですそれ。常にっていうのは?」

 

「24時間。お風呂も、トイレも。」

 

「やだ! そんなの。」

 

「もちろんプライバシーは守られるよ。
 会社の情報も取得することはありえないし。
 これはただの救命道具だと思って。ね。」

 

ね。ってなに?
私の不安をよそにミカのはにかむ顔は、
妙な愛らしさがある。憎たらしささえ覚えた。

 

その日の夕方、私は退院した。
同意書にサインしなければ、たぶん…
ずっと病院暮らしだったかもしれない。

 

2.崩壊
――――――――――――――――――――

 

貼られた救急シールがけたたましい自走機械は、
私がなにも言わずに勝手に後をついてきた。

 

ひとりでタクシーに乗っても、
車道を疾走する姿には目を見張るものがある。

 

自宅マンションに着いてから、
エレベーターを閉め出すと
非常階段を駆け上って部屋までやってきた。
たくましいストーカー。

 

トイレのときは外へ押し出し、
ドア前で待機させた。

 

お風呂は蹴飛ばして脱衣所さえ入れさせない。

 

湯船にかりながら、これからも続く
ストーキングを繰り返す鉄塊てっかいとの生活を考えて
気が重たくなった。

 

それから仕事のことも…。

 

職場の上司にはおびのメールにあわせて、
退院の知らせと明日から復帰するむね
簡潔かんけつに伝えた。

 

自走機械の発する小さな音を耳にして、
私は不安にさいなまれたまま眠りについた。

 

――――――――――――――――――――

 

朝はやく出勤して、ロビーで
エレベーターを待っていると
後ろから聞き慣れたしゃがれた声がした。

 

「なんだぁ、こいつ。」

 

長身の男性が鉄塊てっかいを革靴の足先で小突いた。

 

「ショウさん。それ…。」

 

「なんだ、マコトのか。」

 

「はい。」

 

ショウ・ヒトミは私の上司。
もみあげの特徴的な男性で、
今日も扇子せんすを持ち歩いている。

 

「入院したんだってな。
 もう大丈夫なのか?」

 

「はい。ご心配をおかけしました。」

 

私はいつものスーツ姿で、
髪をい上げて彼の前に立つ。

 

「心配なんざしてねえよ。
 で、なんだったんだ?」

 

「はぁ、突発性の重力障害というそうで。」

 

「知らねぇ。なんだそりゃ…。まあいいや。
 …なぁ、妊娠じゃないんだな。」

 

私は黙ってうなずく。
エレベーターはまだ来ない。
この時間帯はいつもこう。

 

「お前の後任、ハルにしたから。」

 

「え? 後任って!」

 

ロビーに私の声がひびく。
ハルは今年入社したばかりの女子社員だった。

 

彼女は私とは違い背がとても低く、
愛嬌あいきょうがあるので男性人気が高い。

 

「ショウさんおはようございまぁす。」

 

甘い声音でヒールの音を響かせて、
ハルがやってきた。噂をすれば影がさす。

 

「おはよう…ハルさん。」

 

「マコトよぉ当然だろ。
 新規のプロジェクト、
 お前が勝手に穴開けたんだからよ。」

 

もっともだ。
私が上司だったら同じ対応をする。

 

悔しさに手を強く握りしめる。

 

「あ、マコトさん、いらしたんですね。
 入院したんじゃないんですか?」

 

「突発性なんとかだろ?
 それで仕事できんのかよ。」

 

「重力障害だそうです。わかりません。」

 

「しょーがいって。障害者ってこと? ヤバ。」

 

「病院が勝手に言ってるだけよ。」

 

エレベーターが来たところに、
私とショウさんとハル、それから
自走機械までも乗り込んだ。

 

「おい。」

 

「すみません。病院がどうしてもって。」

 

「スパイなんじゃないですか?
 企業スパイ。アハハ。」

 

「笑えねえし。追い出せよ。
 んなもんあったら仕事になんねぇだろうが。」

 

ショウさんの言い分は当然で、
それでも考えなしに出社した私は浅はかだった。

 

自走機械の重たい本体を持ち上げて
エレベーターから出そうとしたとき、
脚部が裏返り、私の身体にまとわりつく。

 

バランスを失った私は床に倒れてしまった。

 

「ちょっと! なにこれ?」

 

「タコみたい。」

 

「おいおい。マコト。
 他にも乗客いんだぞ、迷惑かけんな。」

 

「すみません。」

 

私の置かれた状況など気にもとめず、
自走機械は突然、警報音を鳴らした。

 

「黙らせろっ!」

 

「わかりませんよ、こんなの…。」

 

「ビョーキなんじゃないですかぁ? ヤッバ。」

 

「それ捨ててくるまで会社くんな!」

 

「さよなら、せんぱぁい。」

 

エレベーターを締め出された。
ロビーには私と自走機械が取り残された。
警報音は止まっている。

 

こいつのせいで。
ムカついて思いっきり横っ腹を蹴倒した。

 

――――――――――――――――――――

 

自宅には帰らなかった。

 

自走機械をどこかに捨てようと思ったけど、
捨てられる場所に心当たりなんてなかった。
不法投棄ほうとうにもなるし。

 

私が向かった先は、ショウさんの自宅だった。

 

小さなマンションの一室。
自宅と呼ぶより、巣と呼んだ方がいい。

 

彼にとっては愛の巣であり、
私にとってのクモの巣。

 

廊下の扉の前で座って彼が帰ってくるのを待った。
胸元からペンダントのリングを取り出してつまむ。

 

私は彼と交際していた。
けれど彼は家庭を持っている。お子さんもいる。
私はただの愛人に過ぎない。

 

発病した日、私は彼に捨てられた。

 

離婚をチラつかせる彼と逢瀬おうせを重ね、
私は結婚を期待したバカな獲物だった。

 

今年に入って会う日数は減った。

 

ショウさんは後輩のハルに乗り換え、
離婚を待ち続けた私を捨てた。

 

それでもここで彼を待つ自分のバカさ加減。

 

思考停止しこうていしした私はかわいた笑いがこみ上げる。

 

リングからのぞくくもり空が、
私の心模様を表しているように思えた。

 

どれほど待ったか、日が暮れて雨が降ってきた。
廊下に雨粒が落ちてくる。

 

髪に落ちる水がわずらわしい。
私は顔を上げて、廊下から外を眺めた。

 

すると小粒の雨が、私の顔に向かって
吸い寄せられるように落ちてきた。

 

「え? なに? ちょっと!」

 

おかしな雨の流れに、
カバンから急いで折りたたみ傘を取り出した。

 

けれど傘から落ちた雨粒が、
私の身体にまとわりつく。

 

タイツに満遍まんべんなく水が染み込み、
スーツが水を吸い込んで身体が重たい。

 

それから顔に雨水が張り付いて取れない。

 

思い出した。
あの医者、ミカって子の言っていたこと。

 

雨水はじわじわと私を包み込み水のまくを形成する。

 

呼吸と一緒に鼻や口の中に入り込む水を、
吐き出してもまた身体に張り付く悪循環あくじゅんかん

 

大量の雨水が私を襲う。
助けを呼ぼうにもおぼれて声が出ない。

 

水の向こうで自走機械が警報音を発する。

 

シュウさん! 助けて…。

 

目の前が暗くなる。今度こそおぼれ死ぬ。
その直前、ぼやけた視界の先に誰かが現れた。

 

「おや、ギリギリセーフだねぇ。」

 

病院で会った全身オレンジ色をしたミカだった。
オレンジ頭に厚底靴。

 

目を見開いて苦しむ私の前に、
自走機械の背面を開けた。
なにしてるの?

 

取り出したのは黄色の、長いつつ状の物体。

 

それの先はゴム状になっていて、
口元に当てると伸びた吸気くうき口で呼吸ができる。

 

手で形を探ると、それはシュノーケルだった。

 

つばとも雨水とも呼べるものを吐き出して、
身体に欠乏けつぼうした酸素さんそを取り戻す。

 

ミカはといえば、
自走機械をでて私の様子を眺めていた。

 

「医者呼ぼっか?」

 

あんたも医者でしょ…。
酸素をムダにしたくないから、
雨水に包まれたままにらんだ。

 

「身体は大丈夫そうだね。」

 

ミカは私を置いて階段を降りていく。
ちょっと待って!

 

シュノーケルをしたままでは全然しゃべれない。
足元に張り付いたカバンと傘を引きずって
彼女を追いかけた。

 

「乗る?」

 

マンションの前に停めていた自動車の扉を開けた。
ミカの体格に似合わない大きなオレンジ色の
SUV(スポーツ・ユーティリティ・ヴィークル)。

 

「もしもしー? うん、大丈夫だった。
 いまから帰るよ。」

 

彼女は誰かと通話したが、
なにやら報告だけしてすぐに切った。

 

雨水に体温を奪われて寒い。

 

いつになったらこの症状が収まるのか、
彼女は必ず慢性まんせい化すると言っていたが、
そうするとずっとこのままかもしれない。

 

私は後部座席で雨水に包まれたまま
身体をふるわせた。

 

「なに? おしっこ?」

 

違う!

 

「もうちょっとしたら着くから我慢してね。
 おらしされても分かんないけど。」

 

「うううっ!」

 

首を横に振っても彼女は気づいていない。
勘違いされたままのがずかしかった。

 

3.歓待
――――――――――――――――――――

 

雨の中、しばらく後方を気にしたが、
自走機械はミカの車に乗らず追いかけずに、
どこかへ行ってしまった。

 

「言ったかな。言ってないかも。
 自走機械なら病院に帰ったよ。」

 

彼女がなにかしらの命令をしていたようだ。

 

車が着いた先は病院ではなかった。
鋼鉄製の門扉をスライドさせて、車を中に入れる。

 

そこは小さな小学校のようなところだと思った。
こじんまりとした四角い建物。

 

「おしっこ我慢がまんできた?」

 

「うううっ!」

 

「なに言ってるか分かんないね。それ。」

 

車を降りて雨にさらされると余計に身体が冷える。

 

「手、出して。」

 

差し出された手を握ると、
ミカの小さな手はとても暖かく、
身体が軽くなった気がした。

 

「それ、取れるよ。」

 

おそる恐るシュノーケルを外す。
顔がずぶ濡れで気づかなかったが、
身体を取り巻く雨水は足元に落ちてなくなった。

 

ミカが差し出した傘から雨が入り込むこともない。

 

「え? どうして? なにしたの!」

 

「とりあえず中入りな。風邪引くよ。」

 

2階建ての白亜色をした建物に、
そのままミカに手を引かれて招かれた。

 

「ただいまー。」

 

「おかえりー!」

 

「ねーちゃーん!」

 

「お客さんだからお行儀よくしてね。」

 

「はぁーい。」

 

広い玄関口。壁に並ぶ靴箱。大きな傘立て。
プラスチック製のスノコ

 

そこは小型の小学校のような
懐かしい雰囲気があった。

 

可愛らしい女の子ふたりが、私達を出迎えた。
顔も髪型もそっくり、双子だろうか。

 

ボブヘアでふたり仲良く手をつなぎ、
タオルを持ってミカに渡した。

 

それから遅れてオートマトンがやってきた。
一般家庭に置くにしては高価な存在。

 

「はい、ふたりとも自己紹介できる?」

 

「スズリ・アキミヤ、10歳です。」

 

「スミ・アキミヤ、10歳です。」

 

ふたりの愛らしい顔を見てから、
ミカの顔を眺めた。似てない。

 

ふたりが10歳なら、母親のミカは何歳だろう?

 

「顔拭いたら?」

 

髪から水がしたたり落ちて、
たぶん化粧も落ちて酷いことになってると思う。

 

ミカが手を離すと、服に吸い込んだ水が
絞り出されるように首からはい上がる。

 

「え? ちょっと。」

 

「これ使う?」

 

タオルを差し出すタイミングがおかしい。

 

「待って、説明して。」

 

「ここはあたしの家。
 元は養護施設だったかな。
 スズとスミは預かってる子供ね。
 ねぇ、レオは?」

 

「先生、ごはん作ってる。」

 

「今日のメニューはなに?」

 

「エビチリとバンバンジーでございます。」

 

「素晴らしい。褒めてつかわす。」

 

「ありがたきおことばー。」

 

ちびっ子ふたりそろって深々ふかぶかとお辞儀じぎをする。
私はなにを見せられているのだろう。

 

「まって! まって! お客さまはー?」

 

たぶんスミちゃんの方の言葉に、
視線が私に集まった。

 

「マコトちゃん、ちゃんと自己紹介できる?」

 

「おちょくらないでください。
 マコト・カケメよ。28歳。」

 

「マコトちゃんは、レオ先生と同い年だよ。」

 

「マコちゃん。」

 

「マコちゃん! いらっしゃいませ。
 どうぞ、ごゆっくりとくつろいでください。」

 

「スズ、レオいないうちに、
 アレやって見せてよ。」

 

「いいの?」

 

「レオには内緒ね。」

 

スズリと呼ばれた片方の顔が明るくなる。

 

手をつないでいたふたりが、手をほどき、
スズリちゃんは膝を曲げて
ゆっくり伸ばすと宙に浮いた。

 

初めはワイヤーかなにかで吊り上げた
手品だと思っていたが、天井に両手を付けると
今度は私の方に向かって勢いよく飛んできた。

 

「あっ! だめだって。」

 

目の前でミカがスズリちゃんを止めたが、
今度はふたりしてゆっくりと浮き始めた。

 

「あー。」

 

スミちゃんがその様子を見上げて声を発する。
この事態を察するに手品じゃないっぽい。

 

「ちょっとオートマトン
 スミに、手貸して。」

 

スズリちゃんを抱えて壁を垂直に立っているミカ。

 

スミちゃんは彼女の伸ばした手を、
オートマトンに抱っこされて両手で握った。

 

すると浮遊ふゆうしていたミカとスズリちゃんの身体は、
重力に従いガチャンと金属的な音を立てて落ちた。

 

「スズー。」

 

「ごめんなさーい。」

 

手を握り横に倒れたままのミカに、
抱かれたスズリちゃんを
スミちゃんが手を取って起こす。
それからミカも立ち上がった。

 

「ほら、この通り。
 分かりやすいでしょ?」

 

「なんにもわかんないんだけど?」

 

「おかえりー、ねーちゃん。
 ご飯の準備できたからみんな手伝って。」

 

玄関に現れたのはスタイルのよい成人女性。
目鼻立ちの大きくハッキリした顔に、
赤いエプロンが似合う。

 

ねーちゃん…?

 

「マコトちゃん、この子、知ってる?」

 

ミカに尋ねられても彼女とは初対面だ。
顔も見覚えないし、名前も知らない。

 

「知ってるわけないって。
 私あの日はヘルプでフロア立ってただけだし。
 もー驚いた驚いた。」

 

「そっかぁ。つまんね。
 マコトちゃんこいつ、あたしの妹のレオ。」

 

「妹さん? …は?」

 

「は、じゃねーし。」

 

「あの日、突発性重力障害で
 救急車呼んだのが私だよ。」

 

「そう…なんですね。」

 

「お腹すいたー。」

 

「ひもじぃよぉ。」

 

「あたしもひもじぃ。」

 

「ねーちゃんはお皿の準備して。
 あー、その格好…お風呂まだだし、
 とりあえず着替え用意しないと。」

 

「え? 着替えなんて。」

 

「ここじゃレオが一番偉い人だから、
 素直に聞いとけ。」

 

「スズリ。
 先生とマコトさんの着替え手伝って。」

 

「あーい。」

 

「スミは?」

 

「スミはあたしとご飯の支度だよ。」

 

「ねーちゃん、
 盗み食いしちゃダメだからね。」

 

「今日はしないよ。ねー。」

 

「はい。今日はしません。」

 

いつもはやってるんだ…。

 

条件付きで否定したミカは
見た目の通り子どもっぽい。

 

――――――――――――――――――――

 

唯々諾々いいだくだく、ずぶ濡れの服を着た私は
ミカの妹、レオさんの部屋へと案内された。

 

私は身体にこびりついた
多少の砂と唾液混じりの雨水を拭き取り、
スーツとタイツを脱いで下着姿になった。

 

着替えは常にスズリちゃんが、
手伝ってくれているのか手を離さない。

 

一見ジャマにしかならないスズリちゃんの行いも、
レオさんはなにも言ってこない。

 

宙に浮かんだあの不思議な手品は
一体なんだったんだろう。

 

「手、はなしちゃダメだよ。」

 

「それはどうして?」

 

「どうしてって…あれ、聞いてないんですか?」

 

「なにがですか?」

 

置いてけぼりを食らっていると、
レオさんはため息を付いた。

 

「なんか、すみません。」

 

「あぁ、違うの。ねーちゃんがね。
 あとで、ちゃんと説明させますから。」

 

「すみません。」

 

「気にしないで。
 ねーちゃんはいつもあんな感じなんで。」

 

妹さんの苦労がしのばれる。
あのちんちくりんが姉というのが
いまだに信じられない。

 

「レオさんは、レストランの
 ホールスタッフなんですか?」

 

「あぁ、あれはヘルプ。
 友達のお店のお手伝いだよ。
 普段はここの…教員? 居候いそうろう?」

 

「教員? 先生なんですか?」

 

「免許だけは持ってるから。
 私の雇用主でここの家主がねーちゃん。
 家主なのにあんまりいないけどね。
 これフリーサイズだけど、
 マコトさんこれで収まる?」

 

ストレッチブラジャーを渡されて困惑する。

 

「そこまでしていただかなくても。」

 

「遠慮とかいいから、風邪引くよ。
 ホラ、さっさと着て。」

 

「そうだよ。ごはん。」

 

「ね。ご飯。」

 

「すみません。」

 

「マコトさんって私と同い年で、
 広告代理店で働いてるんですね。」

 

レオさんが私の濡れたスーツをハンガーにかけて、
除湿乾燥機を取り出して点けた。
中のファンが音を立てる。

 

「私は教員免許とってもすぐ飽きちゃって。
 最初は保育士とって、次は救命救急士とって、
 調理師とってもフラフラしてるから尊敬する。
 とにかく飽きっぽで姉にここへ誘われて、
 ようやく今に至るって感じなんです。
 まともに働いたことないから恥ずかしい。」

 

「え…それはそれで多才過ぎませんか?」

 

「ねーちゃんに比べると全然だよ。」

 

こんなしっかり者のレオさんが
謙遜けんそんするほど、ミカの存在は
偉大なのかは疑問だった。

 

「私はそんなにすごくありません。
 会社行ったら、いつもしかられてて。
 仕事じゃ後輩に抜かれて、不倫ふりんもして、
 結婚もできず…。」

 

略奪りゃくだつの末の結婚に、
私は一体なにを望んでいたんだろう。

 

彼と離婚した奥さんや子どもは、
きっと私と同じ道をたどってしまう。

 

そう思うと余計に気は重くなる。

 

「今日だって、重力障害だって言われてたのに、
 無理やり会社行って、振られてるのに、
 バカみたいに期待して。」

 

私はくやしさにうなだれる。
それに未だに自分が病気になったことを
受け入れられずにいる。停滞ていたいしている。

 

すると頭になにかが乗った。

 

「ばぁ!」

 

見上げると私の頭に手を乗せたスズリちゃんが、
舌を出して変な顔をした。

 

「スズー。もー。
 ねーちゃんのマネばっかすると、
 天狗てんぐさらわれちゃうよ。」

 

「テングやだー。」

 

レオさんにたしなめられ
彼女の顔がちょっとゆがんだ。
その顔の変化に、悩み過ぎていたと自嘲じちょうする。

 

「レオー。」

 

「ごはーん。」

 

「ホラ来た。食いしん坊。
 はーい。もうちょっと待ってて。」

 

ミカとスズのふたりが部屋にやってきて、
下着姿の私は恥ずかしさに身体を片腕で隠した。

 

「んなデカいの、隠せるもんじゃないのに。
 ひょっとしてイヤミか。」

 

「違うの!」

 

小さな彼女のデリカシーのなさに、
顔が火照ほてるほど熱くなった。

 

4.障害
――――――――――――――――――――

 

「マコトちゃんは、あたしらと同郷だよ。」

 

「え?」

 

「そうなの?」

 

初めて知らされた情報に、
私は驚き首を横に振る。

 

レオさんも知らなかったようだ。

 

「ねーちゃん…。」

 

「言わなかった?」

 

「聞いてません。」

 

「はい、あーん。」

 

会話の途中でスズリちゃんが
エビチリを私の口に運ぶ。

 

スズリちゃんは私の膝の上、
スミちゃんはミカの膝の上で食事をしている。
不思議な光景だ。

 

例のごとく、なぜか左手は
スズリちゃんに支配されていた。

 

私はいまはレオさんの持っていた
上下黒色のスウェットで身をくるむ。
他人の服を着るのは慣れない。

 

「スミ、あたしも。」

 

「えー。いいよー。」

 

「キャンプの計画したの、そういうこと?」

 

「あーそうそう。」

 

「そういえば、病院で
 キャンプ場の話したけど。」

 

「でしょ? したじゃん。」

 

「それだけでしたよ。」

 

「ねーちゃんはキャンプ場で
 重力障害を発症したんですよ。」

 

「〈リポーシェン〉ね。」

 

「レポ?」

 

「〈ヘビィ〉の反対。斥力せきりょくのことね。
 スズとあたしは同じ〈リポーシェン〉。
 油断すると浮いちゃうのよ。」

 

「え? でも普通に歩いてましたよね?」

 

「見て、これ。」

 

長い袖をめくって、手首まで伸びた器具を見せた。

 

「〈リポーシェン〉は自分の体重の
 倍近くを地球の重力に反発させちゃうから、
 こうした拘束具こうそくぐが必須なの。」

 

「あのキャンプ場で『天狗攫てんぐさらい』って
 ウワサあったでしょ。
 あれ、ウチのねーちゃんのこと。」

 

「あぁっ!」

 

「テレビで大騒ぎだったよね、ウチ。」

 

「あたしはそれどころじゃないよ。
 突発性だったら落っこちて死んでたよ。
 慢性化してたからよかったけど、
 5000メートル超えたあたりはヤバかったね。
 空気全然ないし、寒いし。」

 

「え? どうなったんですか?」

 

「気球出したんだよね。」

 

「そう。
 ヘリコプターだと風で流されちゃうからね。
 気球飛ばして、そこから無人機につけた命綱に
 ぶら下がって地上まで降りてきた。」

 

「そっからねーちゃんは研究者一直線。」

 

「〈リポーシェン〉って当時すごい珍しくて、
 誰もかれもが研究させてくれって言うから、
 あ、これ自分でやればもうかるなーって。」

 

もうかる…。
 ん…あれ? 医者じゃなかったの?」

 

「医者なんて名乗った覚えないよ。」

 

ドクターミカと名乗っていた。
病院だから、私が勘違いしたに過ぎない。

 

「変なこと言ったんじゃないの?」

 

「どうして真っ先にねーちゃんを疑うのさ。」

 

「ねーちゃんそういうとこあるじゃん。」

 

妹が尊敬そんけいするほどの姉だが、
同時に信用がないにも程がある。

 

「ごちそーさまでした。」

 

「でした。」

 

「お粗末さまでした。」

 

「もういいの? あたし全然食べてない。」

 

私も驚かされるばかりで食べていない。
ただしくは食事どころじゃない。

 

スズリちゃんを膝から降ろして、
彼女はスミちゃんと手を繋ぐ。

 

「マコトちゃんはそのまま、
 テーブル近づいちゃダメだよ。」

 

「ゲームしてもいい?」

 

「いーい?」

 

「1時間だけだよ。」

 

「はーい。」

 

ふたり仲良くリビングを出ていき、
ゲーム機を持ってきてソファに座った。

 

私はミカに言われたまま、
テーブルから離れて立たされている。

 

「子どもたち…ふたりとも、
 重力障害なんですよね?」

 

そんな気配はまったく感じさせない。

 

「そうよ。去年から預かって、この家?
 設備か、買って改装したんだよ。
 広くて便利だしいいでしょ。」

 

「勉強も家事も私がしてるんだけどね。
 ねーちゃんは研究だの論文だの講演だので
 あちこち飛び回ってるんだもの。」

 

「愛すべき妹よ。んちゅー。」

 

「もー。」

 

唐突とうとつに頬にキスされても、レオさんは笑って
まんざらでもない表情を浮かべる。

 

「〈ヘビィ〉と〈リポーシェン〉は、
 特性が磁石の極性に近い関係ね。
 不思議なことにお互いの障害を、
 人の質量に関係なく打ち消し合うの。」

 

「そんなことあるんですね。
 あ、だからスズリちゃんが
 私の着替えを手伝ってくれたんですか。」

 

ん…質量…?
ミカはあんに私のが重いと言っているのだろうか。
身長とかスタイルの差は当然だと遺憾いかんを覚える。

 

「これで食べてみる?」

 

ミカが右手を差し出すので、
私は左手を握ると、スズリちゃんを
膝に乗せていたときと同様に
普通に食べることが可能だった。

 

「私のつけてる拘束具よりは
 効果絶大なのよね、皮膚接触ひふせっしょく
 でも〈ヘヴィ〉は食事のときも
 注意しないとダメよ。
 〈リポーシェン〉は空間が致命的だけど、
 〈ヘヴィ〉は主に液体が致命的になるの。」

 

液体は散々身にみたので分かる。

 

「空間? 空ですか?」

 

「私が発病したときは、
 無重力状態で歩いた反動が推力すいりょくになる。
 突発性なら時間の経過で収まって、
 同時に地面に叩きつけられるよね。
 風や天井がなければ空高く舞い上がる。
 雨や雪ならその衝突でまだ降りられたかも。
 水滴が雨として地面に向かって降るような
 大気の抵抗を受けることもなく、この障害は
 地球の重力に反発する形でずっと浮く。
 これは地球の重力圏を抜けるまでね。
 で、凍死とうし窒息ちっそく死、場所が悪ければ
 それより早く電線で感電かんでん死。」

 

「感電…。」

 

「死んだらどうなると思う?」

 

「え? えーっと、天国?」

 

「ねーちゃんの質問は分かりにくいね。
 そういう質問じゃないと思うよ。」

 

「そう? まあ続けるけど。
 〈リポーシェン〉はどこまで機能するかって話。
 天国でもいいけど、酸素のない空中で、
 この病気が機能すると思う?」

 

「し、ない? する?」

 

話が難しすぎて判断ができない。

 

「宇宙じゃまだ〈リポーシェン〉の
 遺体いたいは見つかってないわね。
 この病気が発見された当時は、
 遺伝子に原因があるだなんて言われたけど、
 細胞にそんな機能はないから否定された。
 死んだ人も浮いたりしない。」

 

「それじゃあ結局なんですか?」

 

「さぁね?
 まだ研究してない脳か、神経あたりか、
 はたまたダークマターが関係してるかも?
 ケイヴァーリットとか、アパージーなんて
 適当な名前で呼んでてもいいけど、
 まだ誰にもハッキリとはわからない。
 いくつか仮説はあっても証明はできてないの。
 わかってることといえば、
 相反あいはんする重力障害は皮膚接触ひふせっしょくで、
 症状が相殺そうさいされちゃうってこと。」

 

「ふたりとも、お行儀ぎょうぎ悪いよ。」

 

「はーい。」

 

目を離すスズリちゃんとスミちゃんは、
ふたりで脚を器用に組んで
携帯ゲームをプレイしていた。

 

「ねーちゃんの話は難しいよね。
 ところでマコトさん今日泊まってく?」

 

「え? あ…。いえ…。」

 

「泊まってきなよ。
 どうせひとりでしょ。」

 

「ねーちゃん失礼だよ。」

 

その通りだ。

 

私は家に帰りたかったが、
帰ったところでお風呂に入れなければ、
トイレもひとりじゃ行けない。

 

にしてもミカのニヤケ顔が気に食わない。

 

「とまるのー?」

 

「おとまりだー!」

 

「じゃあお布団用意して。
 ゲーム片付けてね。」

 

「はーい。」

 

「やったー。」

 

スミは身体にゲーム機を取り付けて走り、
スズリは天井まで跳ねて、慌ただしく
リビングを出ていった。

 

「こらー。ふたりとも、お行儀ぎょうぎ悪いよー。」

 

「なんか、すみません。
 色々とお世話になりっぱなしで。」

 

「いいよー。私、にぎやかなの好きだし。
 ここはそういう人の場所でもあるから。」

 

「そうそう感謝はしてね。あたしに。」

 

「ねーちゃんはさぁ…。」

 

ミカの発言にレオさんはあきれて笑う。
私もつられて呆れた。
この人相手は何度目だろう。

 

――――――――――――――――――――

 

レオさんも食事を終えると
お風呂の支度をすると言って、
リビングを離れた。

 

私はミカとふたりっきりになった。

 

「突然、重力障害になって
 困惑するのは分かるよ。」

 

「治らないんですよね?」

 

「環境が環境だから難しいね。
 もっといい施設だったら、
 治療の研究も進むとは思うけど。」

 

ミカはバンバンジー
生春巻きでつまんで食べた。

 

拘束具を取り付けている彼女が
私に併せて、食事をとる必要はない。

 

私は自分の無能さを実感する。

 

「こんなの特殊な能力を
 手に入れたと思えばいいのよ。
 スズスミも楽しんでるしね。」

 

ここに来て、改めて私は
あなたたちみたいに器用に、
たくましく生きられない人間だと思った。

 

「ムリですよ。そんなの。」

 

私はムキになって握られた手を振りほどく。

 

すると食卓の皿や箸、それから料理が
私の身体にまとわりついてしまった。

 

「あー…。」

 

「ご、ごめんなさい。」

 

「いいよいいよ。
 スミも普段よそ見してやらかすからね。
 それより火傷してない?」

 

「大丈夫、です。」

 

自分にため息をついた。
みじめすぎて泣きたくなった。

 

5.解離
――――――――――――――――――――

 

ちびっ子ふたりと私はお風呂に入らされた。

 

10人ぐらい入れそうな大きな浴槽。

 

私がスズリちゃんから手を離すと、
重力障害のせいでお風呂の湯が
身体にまとわりつく。

 

ひとりでは入れないと改めて実感する。

 

スミちゃんは息を止めて、
お風呂のお湯を身体にわせると
全身を素早く、ただし雑に洗った。

 

結局3人で手を繋ぎ、交互に洗いあった。

 

料理で汚してしまったスウェットは、
黒色からピンク色に様変わり。

 

似合わなすぎて恥ずかしいが、
ちびっ子ふたりはとてもはしゃいでいる。

 

寝室では自分たちの能力を見せつけようと、
スズリちゃんは天井に張り付き、
スミちゃんは敷布団で簀巻きになって
私にひっつくように体当たりする。

 

私はふたりをなだめようとしたけど、
宿泊客の身なので強く言うこともできない。

 

先生役のレオさんがいないとこうなるんだね…。

 

当の先生は食器を洗って入浴の最中。

 

「お、着替えたの。
 その色! ピンクか…似合う似合う。ぶふっ!」

 

「笑わないで。」

 

寝室に入ってきたミカが、
ちびっ子ふたりを捕まえて器用に寝かしつける。

 

〈リポーシェン〉のスズリちゃんには
掛け布団をベルトで床に固定し、
〈ヘビィ〉のスミちゃんには、
布団で窒息ちっそくしないように敷布団と固定する。

 

オートマトンも部屋の隅に鎮座ちんざしていた。
もしものときに対応するのだろう。

 

「ふたりとも寝るよー。」

 

「今日はなんの本?」

 

紙袋を持ってきたミカが、
いくつかの本を取り出す。

 

子供向けの絵本や図鑑の類ではない。
10歳ならもうそんな本読まないかもしれない。

 

けれどもミカが持ってきた本は、
『人体の構造』や『機械人形オートマトンの機能』、
『月面からの火星開発』などの専門書ばかり。

 

大人向けの本で、
まず10歳が読むような本じゃない。

 

「いつもこんなの読んでるの?」

 

「あたしがいるときは、
 だいたいこんなんだよ。」

 

「ふたりとも読めるの?」

 

「もう読めるよ。」

 

「お父さんとお母さん、宇宙にいるんだよ。」

 

まさかと思い、ミカの顔を見た。

 

「ふたりの両親はあたしの知り合いで、
 いまは火星で地質学の研究してるの。」

 

予想と違っていてホッと胸をなでおろす。
その時、一冊の本が私の目に留まる。

 

真っ暗な宇宙に漂う、巨大な環状構造物。
宇宙居住区『スターリング』が表紙の本。

 

今どき紙の本などどうかと思ったが、
手にしたときの重さが不思議と懐かしい。

 

「…これ、私の本だ。」

 

正確には私が担当した本。

 

入社してまもなく、研修を終えて
社内制作で任された最初の案件。

 

表紙を開くと、懐かしい言葉がある。

 

『明日は、未来へ。』

 

いくつか、文言もんごんの候補を挙げたが、
最後の最後まで悩んだ箇所だ。

 

この本を担当するにあたって、
勉強のため、関連書物を熱心に読んだ。

 

上梓じょうし後、ショウさんに褒められたのを
今でもよく思い出す。

 

「再来年、そこに移住すんの。」

 

「ウソっ?」

 

「ウソじゃないよ。スズスミも一緒に。」

 

「そうだよ。」

 

「お父さんたちに会いに行くんだ。」

 

「あたしの研究に協力してくれてる
 ふたりは優秀な助手たち。
 今はみんなでお金貯めてるのさ。」

 

「そしたら火星行くんだよ。」

 

「行くー。」

 

「えーいいなー。楽しみだね。」

 

「マコトちゃんも来る?」

 

あまりのことに目を見開いて、ミカを見た。
変に期待を抱くちびっ子ふたりの視線が怖い。

 

「〈ヘビィ〉だし。
 研究には都合が良さそう。」

 

「もしかして、人体実験でもするの?」

 

「まさか。人聞きの悪い。
 そんなのしないわ。
 それに地球の重力圏から外れると、
 やっかいな重力障害もなくなるし。」

 

「へぇ…そうなの?」

 

ミカは首をかしげる

 

「あれ、言わなかった?」

 

「言ってないし。聞いてない。」

 

「えーだって、
 重力障害は地球の重力に関係するもの。」

 

「なんで私、宇宙?」

 

私は手元の本に目を落とす。

 

「マコちゃんも来るの?」

 

「あのね! スミも〈ヘビィ〉だよ!」

 

「スズは〈リポーシェン〉だよ。」

 

「知ってる知ってる。
 マコトちゃんが一緒に来るかは
 マコトちゃん次第だけど、誘ったのは
 同郷のよしみってやつね。考えといて。
 じゃあ今日は、この本読もっか。
 マコトちゃんが読んでくれるから。」

 

「勝手すぎ。」

 

ちびっ子ふたりから眼差しが痛い。
観念して3人で横になって私は本を読んだ。

 

6年も昔に作った本だ。
この本を作っていたときは、
いつか自分も宇宙へ行くんだと思ってた。

 

『明日は、未来へ。』

 

懐かしさに1ページずつ読み上げると、
ふたりから高度な質問攻めに合った。

 

たどたどしい説明の度に、
横で聴いているミカが助けてくれる。
勉強不足を痛感する。

 

そして同時に電池の切れたふたりの寝姿に、
私は胸をなでおろした。

 

――――――――――――――――――――

 

リビングに戻るとお風呂上がりのレオさんが、
温めたミルクをミカに渡した。

 

ミカは手をつないでコップを私に手渡せば、
彼女の手のおかげで重力障害は発症しない。

 

「お疲れ様。明日家まで送ってあげるよ。」

 

「すみません。
 色々とお世話になって。
 それでさっきの話…。」

 

「またなんか変なこと言われた?」

 

「えっと…。」

 

「マコトちゃんを
 『スターリング』にお誘いしたの。」

 

スターリング』に住むのは今でもお金もかかり、
容易なことじゃないのは本を作った私でも分かる。

 

「ねーちゃん、それナイス。」

 

「いいんですか?」

 

「だって重力障害の人が地球で生きてくって
 すっごい大変だよ。ストーマの話聞いた?」

 

ストーマはお腹に排泄口を人工的に増設する。
重力障害になると自然排泄も大変になる。
私はそれを思い返してうなずく。

 

「あくまで提案。
 私に誘われたのを行動理由にせず、
 自分で考えて。後悔しないように。」

 

「…はい。」

 

「なんならここに住んでみたら?
 スズとスミのお世話手伝ってくれると助かる。
 ねーちゃん私に任せっきりだし、ズボラだし。」

 

「そんなことないでしょ?」

 

「あるよ。
 今日だって靴下脱ぎっぱなしだったよ。
 いい年なんだから自覚してよー。」

 

「年は関係ないでしょ。年は。」

 

「そんなことでケンカしないでくださいよ。」

 

私に言われてふたりは我に返る。

 

「マコトちゃんがウチに泊まるなら、
 オートマトンもう1体買ってこないとだな。」

 

「あーそうだね。」

 

「それって、高いんですよね?」

 

オートマトンは一般家庭で簡単に手に入るような
値段の代物じゃない。
介護用でリースを受けても相当な費用が掛かる。

 

「ねーちゃん金持ってるから大丈夫。
 それに人命には代えられないから。」

 

「あ、そうそう。
 夜おトイレ行きたくなったら、
 私かスズ起こしてね。慣れてるから。」

 

「…大丈夫ですって。」

 

ミカは説明が足りないと思えば、
いつもひと言余計だったりする。

 

――――――――――――――――――――

 

ひとまず会社をしばらく休むことにした。

 

ミカから頂いたアドバイスから、
得られた保険料を生活費の足しにしている。

 

それからマンションを引き払い、
カバンひとつでミカの家に居候いそうろうすることにした。

 

ちびっ子ふたりは歓迎してくれたが、
ミカは「ホントに来た。」と驚いていた。

 

なんなのこの人…。

 

レオさんの手伝いのかたわら、
ミカについて重力障害に関する講義や、
講演会などに出席した。

 

ミカは世界的にも有名な研究者で、
オレンジ色の奇抜な外見が特徴の人気者だった。

 

講演で知ったことだけど、
彼女がオレンジ色にこだわるのは、
天狗にさらわれたときに青空でも
目立ちやすい色を選んだ結果だそうだ。

 

たぶん趣味に説得力を持たせただけだと思う。

 

彼女の部屋にはオレンジ色や
ライムグリーンの家具が多い。

 

そんな理由もあってか知らないけど、
柑橘かんきつ類が好物でよく貰い物をしていた。

 

あと高齢の研究者から孫のように親しまれている。

 

けれど食べ物に釣られて依頼を引き受けるなど
スケジュール管理が雑なので、私が
マネージャーみたいな仕事をさせられた。
休職中なのに。

 

おまけに手伝いの私は、
水着姿で講演会の壇上に立たされたこともある。

 

重力障害で狂った体重計に乗せられ、
バケツの水を被り、シュノーケルで呼吸する。

 

重力障害は希少疾病だけれど、
年々増え続けている。

 

もしある日隣の誰かが発病したときに、
病気を知り、対策が取れる人が
ひとりでも多く必要になってくる。

 

それから日々の生活のことを、
講演会で登壇して話もした。させられた。

 

無茶振りをしたミカはレオさんに叱られていた。
ふたりを見るとどっちが姉なんだろうと毎回思う。

 

私も重力障害になってから、
色んなことが制限された。

 

私は発病してから意識した。
自分にできなくなったことがいくつかある。

 

お風呂やトイレにひとりでは入れない。
料理はできなくなった。
飲食は〈リポーシェン〉の誰かが
近くにいないと不安になる。

 

自分だけではできないこと、
誰かの手を借りたり、逆に手助けになること。

 

ずっと意識していなかったから、
気を抜くとすぐに失敗する。

 

ちょっとした失敗でも、
この障害が命取りになることを学んだ。

 

ミカがオートマトンを用意してくれたことには
私は黙って感謝する。

 

本人に直接言うにはまだなんか気恥ずかしい。

 

ミカたちと過ごしたおかげで
色々な考えが整理されていった。
ミカに振り回されることも多いけど。

 

立ち止まっていた私は
少しずつ歩きだした。

 

肌身離さず身につけていた
ネックレスを外して。

 

 

(了)