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墓穴を埋める

墓穴を埋める ©2022 UTF.

あらすじ

 

19世紀半ばのロンドン。
ハイゲイト墓地には墓守の若い男がいた。


墓守は死者の眠りを妨げる墓荒らしから、
死後の安寧を守るのが仕事である。


しかし、その男には別の仕事があった。
――それは墓をあばくことだった。


――――――――――――――――――――

他サイトでも重複掲載。

https://shimonomori.art.blog/2022/04/30/bury/

 

文字数:約6,000字(目安5~10分)

 

※読了目安は気にせず、まったりお読みください。

 

※本作は横書き基準です。
 1行23文字程度で改行しています。

 

その他の作品について。

https://shimonomori.art.blog/2022/04/30/oshinagaki/

 

初出:2022/04/30

 

――――――――――――――――――――

 

1.墓地

 

――――――――――――――――――――

 

 

濃い霧が、墓所へと流れ、
街のかすかな臭いを運ぶ。

 

 

ロンドン北西部の森林地帯を拓いて近年作られた、
ハイゲイト墓地に植えられた木々は朱に染まり、
墓石が落ち葉の血溜まりに埋まる。

 

 

俺は墓石を埋める落ち葉をかき集め、
今日も黙々と掃除に励む。

 

 

人間、仕事は選べない。
俺は墓守の手伝いをして、
かれこれ20年になる。

 

 

19世紀も半ばになると経済成長だかで、
景気はよくなり都市部に人が集まった。

 

 

人口が増えれば当然、死者も増える。
死者が増えると埋葬地が足りなくなる。
そんな理由でできたのがこの墓地だ。

 

 

ロンドンには仕事を求めて余所者が集まる。

 

 

俺も15歳のときに身寄りを失いここへ来たが、
年の近かった弟はすぐに死んでしまった。
こんな霧の深い日だった。

 

 

墓守の仕事は墓地の掃除だけではなく、
名前の通り、墓荒らしから墓を守ることだ。

 

 

ただ、墓守などという仕事は、
生産性がないので一生低賃金であり、
まして楽して金を稼ぐ仕事とはほど遠い。

 

 

――――――――――――――――――――

 

2.労働者たち

 

――――――――――――――――――――

 

 

北はスコットランドから
西からはウェールズの田舎から土地を捨て、
さらにはアイルランドや大陸から国を捨て、
好景気に湧くロンドンに人が集まる。

 

 

『楽してかんたんに稼げる仕事』
という謳い文句に騙されるやつが大半だ。

 

 

口減らしに親が子を売り渡す、
いわゆる人身売買も盛んに行われている。

 

 

だが上流階級でもなければ、真っ当な仕事はない。
ツテがなければろくな仕事は斡旋されない。

 

 

求めた仕事に反し、労働は過酷で
衛生環境も悪く、死者は絶えない。

 

 

地方からやってきた労働者には、
まず信用というものがない。

 

 

後ろ盾もなく、いつ
いなくなるとも知れない労働者に、
会社が責任ある仕事を与えることはない。

 

 

どこも仕事内容は限られる。

 

 

汚物の回収、熱い煙突の煤掃除、
長く働けばそのぶん、長く稼げる。
というのは、学のない人間の考えだ。

 

 

家を借りることもできない労働者たちは、
休むためにも金を払う必要があった。

 

 

風雨をしのぐだけの安宿に
家畜同然の扱いであっても金を払い、
敷き藁の上で死んだように眠る
労働者らの姿がある。

 

 

それから長時間にもおよぶ労働で、
労働者は病気を患う。

 

 

工場の機械に挟まれ手足を失う者も多く、
治療費を払えなければ、まともな治療も
受けられずに飢えて死ぬ。
若者ほど早く死んだ。

 

 

しかし、やりたくない仕事、
やらなければならない仕事、
そうした仕事はここにはいくらでもあり、
『換え』はいくらでもあった。

 

 

過酷な仕事を嫌って、このロンドンに人が集まる。
矛盾した労働者たち。矛盾でできた都市。

 

 

――――――――――――――――――――

 

3.仲介業者(エージェント)

 

――――――――――――――――――――

 

 

墓地に背の曲がった見覚えのある老人が
ひとりたたずみ、集めた落ち葉の近くで
喫煙パイプを吹かしていた。

 

 

離れたところに、幾人かの参列者らがいる。

 

 

俺は喫煙している老人に、
いつもどおりに注意をした。

 

 

『そこでタバコを吸うと、火事になる。』

 

 

『そうか、お前も吸うか。』

 

 

老人もこれ見よがしにパイプを見せた。

 

 

『仕事か。』

 

 

そうたずねれば老人はうなずく。

 

 

不自然に一致しない会話が、
この仲介業者エージェントとの符丁になる。

 

 

黒のスーツにトップハット、
青い目に厚い口ひげを蓄えている。

 

 

背の曲がったこの老人の男には、
英国紳士のマネごとは似合わない。

 

 

「で、なんのようだ?」

 

 

老人はいつもの様子でやってきたが、
今日は妙に違和感を覚え、俺はたずねた。
霧のせいだろうか。嫌な臭いが鼻にこびりつく。

 

 

「あの墓だ。」パイプで墓を指した。

 

 

「見ればわかる。ここは俺の庭だ。…名前は?」

 

 

「名前? そんなもん知ってどうする。」

 

 

「なに、文字を覚える勉強だ。退屈なもんでね。」

 

 

老人の煙に合わせて、俺は嘘を吐いた。

 

 

「んなもん、どうせ飽きるだろう。
 アレッサンドロだ。Aからはじまる。」

 

 

「ありがとよ。」

 

 

落ち葉をかき集める作業に戻ると、
口ひげの老人はよたよたと去っていく。

 

 

いつものように酒場に寄ってから、
家に帰るのだろう。

 

 

老人の依頼によって今夜、
アレッサンドロの墓を暴く。
それが俺の仕事になる。

 

 

――――――――――――――――――――

 

4.墓荒らし

 

――――――――――――――――――――

 

 

墓守は墓荒らしから墓を守るのが仕事だ。
だが、生活できないほどの低賃金であれば、
死者には悪いが、死後の安寧は保障できない。

 

 

なにより墓荒らしのほうが儲かる。

 

 

最初は棺など誰が欲しがるかとも思ったが、
埋めた棺を掘り返すのは、
それなりの理由はいくつかあった。

 

 

ひとつはただの盗掘。
金持ち貴族はあちらの世界で困らないように、
死者のために装飾品や大事な金品を棺に入れる。
まずそれが狙われる。

 

 

だが今回の対象は貴族じゃなさそうだ。

 

 

アレッサンドロの墓に集まった参列者は
どいつもこいつもみすぼらしい格好で、
人種もバラバラの外国人にも見える。

 

 

アレッサンドロとやらが金持ち貴族であれば、
参列者の外国人たちはいまごろ空き巣に入り、
さっさと遺品をくすねるだろう。これは偏見だが。

 

 

よほどのお人好し貴族が生前に
かれらに施しでも与えて親しくし、
盗掘しないでくれと頼んだのだろうか…。

 

 

俺は仲介業者の依頼でしか墓を暴かない。
それが仕事であり、犯罪ではあるが
積み上げた信用になっている。
ましてや遺品や盗品を売ればどこかで足が付く。

 

 

今回の依頼は別のところにあるだろう。

 

 

たとえば支配欲や独占欲を満たすため。
死体になってまで欲しがるほどの相手か。

 

 

たとえば愛する人であるとか、
一方的に愛していた人であるとか、
死後も服従させたい人物であるとか。

 

 

アレッサンドロはたぶん普通の男だ。
依頼人の気の毒な欲を理解する必要もないが、
そんな人間を欲しがるだろうか。

 

 

性欲の対象にしている客も多い。

 

 

上流貴族、舞台女優、娼婦、
子供の死体であったなら、
さらに高値が付くのだから理解に苦しむ。

 

 

最近多い客は、ロンドンの頭脳、王立協会である。

 

 

かのアイザック・ニュートンが会長を務め、
文字通り猛威を振るった科学者団体。

 

 

ジョン・ハンターは盗掘した死体を観察し
功績を上げたので、会員たちの功名心によって
こうした手段を選ばない依頼も増えている。

 

 

宗教上の理由で墓を荒らす者もいるが、
生き埋めにされるのを恐れ、土葬を拒絶するだけの
相当な暇人集団だと言える。

 

 

依頼主が増えれば死体の奪い合いで値段も上がる。
だが末端である俺の賃金は上がらない。

 

 

おまけに最近は葬儀業者という商売敵のせいで、
こちらの仕事はめっきり減ってきた。

 

 

――――――――――――――――――――

 

5.盗掘仲間

 

――――――――――――――――――――

 

 

隙間風の鳴る物置のボロ小屋で、
イタリア語の古新聞を読んでいると
扉が叩かれ、少年が覗き込む。

 

 

「連れてきたか。」

 

 

「へぇ。」

 

 

この赤髪の少年は、仲介業者の盗掘仲間だ。

 

 

スコットランド訛りの英語を使うが、
口が固いので重宝している。

 

 

道具を持って外に出ると、
少年の後ろにハゲ頭の大男が立っていた。
体臭が酷く、5歩先まで臭ってくる。

 

 

少年がつたないドイツ語で、
俺との仕事内容を説明している。

 

 

「さっさと行くぞ。」と、
俺はわざとフランス語で指示した。

 

 

仕事には決まって外国人を使う。

 

 

墓を掘り返すのは肉体労働なので、
当然ながら多くの言葉は必要ない。
違法行為なので、外国人は勝手がいい。

 

 

この外国人が他所で捕まったとしても
決して惜しむ人材ではないし、言葉の壁のお陰で
英国人の俺にまで捜査の手は伸びない。

 

 

そして失敗はありえない。

 

 

失敗は依頼主にまで、影響を及ぼすからだ。
失敗は信用を失い、仕事を失う。
すなわち俺の死に直結する。

 

 

少年時代に仲介業者エージェントから教わった。

 

 

それから賃金。
墓荒らしは決まって成果払いだ。

 

 

違法ではあるが、儲かると思われては困る。
現金は出せない。現物支給が条件だ。

 

 

報酬は『特効薬ローダナム』の小瓶。

 

 

ケシの実から採取・合成され、
鎮痛効果があるので万能薬とまで謳われ、
これさえあれば高い医療費を払わずに済む。
そんなはずはないが、信じてる者は多い。

 

 

一般に出回っている安い薬だ。
仕事にあぶれ、路上で寝ている外国人は
こんなものも買えないほど、困窮していた。

 

 

――――――――――――――――――――

 

6.地中1.8m

 

――――――――――――――――――――

 

 

荷車に道具小屋から丸太と滑車、
それからシャベルと、そして空の棺を運ぶ。

 

 

空の棺は盗掘した棺の代わりに埋めるが、
わざわざ競合の葬儀屋からこのダミーを仕入れる
手間賃を考え、廃材を集めて自分で組み立てる。

 

 

墓荒らしの仕事は簡単だ。
目的の墓を探し、1.8mの穴を掘り、棺を運ぶ。

 

 

棺も商品のひとつだ。
こいつを大事にする客もいる。

 

 

今日の商品はアレッサンドロ。
墓碑銘はアレッサンドロ・ディ・カリオストロ
アレッサンドロはイタリアの男性名だ。
英国人ですらない。

 

 

墓の場所は俺が指示し、
3人で墓を掘り、棺ごと取り出す。

 

 

1人でもできるが、掘り出す時間を
短縮するには最低でも3人は必要だ。

 

 

棺は埋葬するときは
大人4人がロープを使い、墓穴に降ろす。

 

 

重量のある棺は、三又に立てた丸太に、
ロープを通した滑車を吊るして引き上げる。

 

 

棺を持ち上げたときに、違和感を覚える。
だがそれよりもすぐに別の問題が起きた。

 

 

棺を地面に降ろしたときに、
雇った外国人が棺のフタを
シャベルでこじ開けようとした。

 

 

組み立てた丸太を片付けていた俺は、
とっさに手にしていた滑車で、
外国人の後頭部をぶん殴った。

 

 

質量のある滑車は外国人の頭蓋骨を砕き、
一撃で卒倒させてしまった。

 

 

「やっちまった。」

 

 

「すんません。
 ちゃんと伝えとけば、んなことには。」

 

 

「いや、いい。このまま埋める。」

 

 

きつい訛りで謝る少年だが、
過ぎたことは仕方がない。
そもそも殴ったのは俺だ。

 

 

俺は掘り出した棺のフタをシャベルでこじ開けた。
自分でも信じがたい背信行為だが、やるしかない。

 

 

「ダンナ、なにしてんで?」

 

 

「黙って見てろ。」

 

 

「…なんだ、こりゃ。」少年は困惑する。

 

 

嫌な予感は見事に的中した。
棺の中に死体はなく、石を詰めた麻袋しかない。

 

 

「死体は…?」

 

 

「しくじったな…。」失敗は死に直結する。

 

 

「どうすんで――?」

 

 

シャベルで少年の喉に向けた。

 

 

まだ喉仏のない首に、
シャベルの先を向けられると
少年は言葉を失い汗を垂らす。

 

 

棺のフタを開ければ、仕事は台無し。
信用を失ったも同然だった。

 

 

俺はまた棺を穴に落とした。

 

 

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7.失敗

 

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「よぉ。おはよう紳士ジェントルマン
 といっても、もう昼だ。」

 

 

口ひげの老人が目を覚ました。
目の前には俺が座る。

 

 

運んできた落ち葉や枯れ枝を火に焚べ、暖を取る。
今日も霧が濃く、やや肌寒い。

 

 

仲介業者エージェントである老人は
目を点にして、周囲を見渡している。

 

 

酒場で酔って家に着いたところまでは、
たぶん覚えているのだろう。

 

 

ちょうど俺が指示された墓を暴いている時間だ。

 

 

それから俺は家に侵入し、
酔って寝ていた老人をゴミ処理のこの山に運んだ。

 

 

外国人への報酬に渡す予定だった
特効薬ローダナム』を寝てる間に飲ませたので、
老人は真昼のこの時間まで気持ちよく寝てくれた。

 

 

「商品のアレッサンドロっていう墓の名前は、
 あのカリオストロ伯爵だろう。」

 

 

俺の言葉に、老人は目をしばたたく。

 

 

「教えなかったしな。俺は字は読めるし、
 フランス語だってまあまあ喋れるし、
 いまはイタリア語の勉強中だ。」

 

 

アレッサンドロ・カリオストロ伯爵。
彼の名は捨てられた新聞記事で読んだことがある。

 

 

フランス王妃マリー・アントワネット
ダイヤモンドネックレス事件で知られる伯爵は、
イタリアのサンレーオ城で獄中死した。

 

 

そんな詐欺師の伯爵が、
遠くロンドンの墓で眠るはずはない。

 

 

有名な詐欺師の名前の墓など作って、
こんな島国で観光地化でも企んでいたのだろうか。

 

 

棺の中に石なんか詰めても、
引き上げたときの感覚ですぐに分かる。

 

 

「タバコを吸うかい?」

 

 

手元の喫煙パイプを見て、老人に投げ渡す。
しかしこの老人には受け取れない。

 

 

なぜなら首から下が地面に埋まっているからだ。

 

 

「日が沈めば土に体温を奪われ、
 正気を失うことになるぞ。」

 

 

「なん! んなごと!」

 

 

薬のせいで上手く舌が回っていない。
俺は少し悲しくなってため息を吐いた。

 

 

「これまで20年、あんたの下で
 文句も言わずに働いてきたのにこの仕打ち。」

 

 

偽の墓、偽の棺、偽の参列者。
参列者にみすぼらしい外国人どもを雇ったのは、
その依頼主がこの老人だからだ。

 

 

外国人を使えば騙せるとでも思ったか。
希代の詐欺師と墓を並べるのは無理だろうな。

 

 

俺への依頼の際にウソをついていることくらい、
臭いでわかった。それでも信じがたいことだった。

 

 

俺はイラ立って立ち上がり、埋まっている老人に
背中に置いていたあるモノを見せた。

 

 

老人の目の前には麻袋。

 

 

それが頭の大きさを残して、
血まみれになって置いてある。

 

 

――――――――――――――――――――

 

8.3つの質問

 

――――――――――――――――――――

 

 

「3つ質問がある。
 1つめはただの答え合わせだ。
 あんたがその名前を出すだけで俺はうなずく。」

 

 

黙る老人を見下ろして、
水瓶の中の水を少し落とす。

 

 

「あんたをこのままにしておけば、
 そこらの野犬が生きたまま
 あんたの顔を食ってくれる。
 そのままでも低体温で正気を失う。
 墓に入るのとどっちがいいか――、
 なんて賢いあんたならわかるだろう。」

 

 

「待ってくれ! けてくれ。」

 

 

「墓から死体をなくすのも増やすのも、
 俺とあんたの仕事だったじゃないか。
 昨日もひとり死んだぜ。」

 

 

「葬儀屋! すでに協会と手を組んでる。
 俺はよりリスクの少ない方を選んだけ。」

 

 

「だろうな。」

 

 

葬儀屋は商売敵だが、
死体の入手は墓を掘るよりリスクは少なく、
無名の死体は楽に手に入る。

 

 

ダミーの棺を用意する必要がないし、
この老人が鞍替えするなら当然の相手だ。

 

 

「商品の死体を石に変えた棺で、
 過失をでっち上げようとしたのか。
 20年…あんたも老いたな。
 それで俺を墓穴に突き落とせるとでも思ったか。
 あんたの家も、通ってる酒場も、買ってる女も、
 あんたの家族も全部知ってるんだぞ!」

 

 

「早く、してくれ。」

 

 

寒さで震えるこの老人は仕事に失敗した。
しかし罠にハメた相手に助命を懇願こんがんする。

 

 

失敗がどうなるのか、この老人には
充分理解させなければいけない。

 

 

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9.過去の執着

 

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「…次の質問だっ。」

 

 

血まみれの麻袋を蹴って、老人の顔にぶつけた。
回転すると中から漏れる血が、周囲に飛び散る。

 

 

「ヒッ!」

 

 

死が間近に迫った老人は麻袋の中身を、
少年の首と勘違いしているのだろう。

 

 

昨晩、少年にあの外国人を連れてきた理由を
問い詰めたが、仲介業者の老人が斡旋しただけで
その理由までは不明だとわかり、不問にした。

 

 

シメたニワトリを詰めた麻袋に
怯える老人に、込み上げる笑いをこらえた。

 

 

「俺の弟を、どこへ売った?」

 

 

この老人と出会ったのは、
弟の死がきっかけだ。

 

 

濃い霧の日に、
俺は寄りかかる綺麗な赤髪をした
弟の死体を売り渡し、それからこの仕事を得た。

 

 

「…覚えてない。」

 

 

しばらくの沈黙のあとで、
老人が小刻みに首を振る。

 

 

「顧客リストになければ、
 あんたが『使った』のか?」

 

 

この場合の『使う』とは、
符丁でもなければ隠語になっていない隠語だ。
子供への用途は限られる。

 

 

「違う! 俺もただの仲介業者エージェントだ。
 協会や成り上がり連中ならともかく、
 上流貴族と直接のツテなんて持ってねえ。」

 

 

「上流貴族か…。」

 

 

それを聞いて、俺は満足して
しばらく湧き上がる笑いを堪えた。

 

 

死から20年も経った弟だ。
いまさらそんなに執着はしていない。

 

 

死後は上流貴族の家で可愛がられたのなら、
飢えと肺を患って苦しんだときよりも、
さぞいい生活だったのだと信じたかった。

 

 

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10.死呼ぶ霧

 

――――――――――――――――――――

 

 

「これが最後の質問だ。
 これに答えれば、俺はあんたのついたウソを
 今回だけは許してやる。もちろん次はない。」

 

 

血と泥にまみれた顔に、水瓶の水をかぶせた。
老人はすでに寒さと死の恐怖に、
奥歯を鳴らして震えている。

 

 

「このまま土の中で犬に食われて引退するか、
 俺に仲介の仕事を託して幸せに引退するか。
 好きな方を選べ。」

 

 

老人は顔から汁を流し、何度もうなずく。
匂いはウソをついていない。

 

 

ロンドンはこれからも労働者が増え、
産業革命は大勢の死者を生産し続ける。

 

 

残念なことにこの仕事は、
これからもっと忙しくなる。

 

 

俺はとうとう堪えられなく笑った。

 

 

人間、仕事は選べない。
さて、俺に貴族のマネは似合うだろうか。

 

 

 

 

(了)